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本を読むようになったのは大学受験に失敗し、東京で浪人生活をするようになってからのことだ。それまではほとんどと言っていいくらいに本に縁はなかった。
きっかけは、岡本太郎の“今日の芸術”と松本俊夫の“映像の発見─アヴァンギャルドとドキュメンタリー”だった。この2冊は、田舎者で何も知らなかった自分には強烈なストレートとアッパーカットであった。岡本太郎の方は平易な文章で─従って私のような読書初心者にも─十分に読み取ることができた。なにかとてつもないエネルギーにぶちかまされたという印象だった。 もう一方の松本俊夫の本は装丁からして自分の持つ本のイメージからは異質なものだった。文章も内容も難解だった。にもかかわらず読むことができたのは、アラン・レネ監督の“二十四時間の情事”について書かれた一節が、自分が漠然と感じていた印象を見事に文章化していたからだった。ちょっと触れただけでも身を切られる鋭いハガネの切れ味を感じた。 この本を紹介してくれたのは同じ下宿の先輩だった。新宿の名画座で“二十四時間の情事”と“去年マリエンバードで”を観て来て、理解できない面が多々あったにもかかわらず凄い映画に思えた印象を告げると、これを読むといいと教えてくれたのだ。 この2冊との出会いは大げさでなく人生の転機となったと思う。よかったのか悪かったのかは別にして、確実に私をある方向に向かわせた。 そのころからむさぼるように映画を観、本を読むようになった。自分の能力を遥かに超えたもの選んだため(わざわざそういったものを意識的に選んだのではなく、選んだものがそういうレベルだったのだ)当時はほとんど理解というものとはほど遠かった。が、そうして観たり、読んだりした経験が今の歳になっていい意味でボディブローのように効いて来た観があるのがおもしろい。 ところがあるジャンルに関しては何度も挑戦はしたのだけれど挫折の連続だった。 “詩集”だ。 歌として表現される詩には、好きなものもたくさんあるし、 当然感動もする。それがどうしてか“詩集”となると最初の数ページまでしか読めないのだ。 人生そういうこともあるさ、とか好き嫌いがあって当たり前、とうっちゃっていたけれど、こころの深い所ではコンプレックスとなっていた。 近頃、その理由、つまり詩(集)に対する拒絶反応がどこからくるのだろうかと考えてみて、一つの原因を突き止めた。 私は自分が思っていたのとは裏腹に、極めてせっかちな性質だということが判ったのだ。 詩とは書かれた言葉の意味やその連携を知性と感性で理解し感じ取るものなのではないだろうか。しかも、散文とはちがって説明的ではない極めて凝縮された単語から成り立っている。だから読む方には、極めて強い集中力と想像力が要求される。そうした能力が劣る者は粘り強く何度も何度も読むしかないのだろう。 せっかちな性質のわたしにはその粘りが欠如しているのだ。散文のように判らない言葉が出て来たとき、辞書を引いてなるほどそうかとならないのが詩の言葉なのではないか。 何度も何度も読み返すうち、やがてその言葉がボディブローのように効いてくるのだろう。せっかちなわたしはゴングと同時に飛び出して、カウンターを喰らってノックアウト。
by z20070715
| 2013-12-17 05:22
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